第7回
 
前回、特定ナンバー・モデルについて、ミニチュアカーを題材に話したのだが、要はクルマの話をしたかったのではなく、特定ナンバーということについて、考えるところがあった。実際、模型をつくるのにはいくつかの動機がある。実物を見ていたく感激し、その感動をエネルギイに模型として再現するもの。はたまた、実際には見ることができなかった憧れを模型という形でイメージ定着を試みるもの。たとえば、われわれの最初の作品であるC622など、まったくの特定ナンバーであり、イノウエにとってはかつて追い求めた「山線」C62の勇姿をふたたび、という思いがあった。実際の制作者であるオオノは、もちろんC62そのものには人後に落ちぬ知識を持っているけれど、実際の走行シーンなど見たことがない、というのだから面白い。

そういえば、今年の「JAM(国際鉄道模型コンヴェンション)」でわがブースを訪ねてきてくれた鈴木博之さん(NゲージのC62の秀作をいくつも発表し、TMS誌で金賞を受賞した達人)など、実物のC62ではなく模型としてのC62に拘っているのが新鮮だった。イノウエにはどうにも実感が湧かず、いろいろ話してようやく納得したのだが、たしかに若い蒸気機関車好きなど実物には直に触れていないのだから、模型としてのメカニズムやらスタイリングの魅力がすべて、なわけだ。それだけに、模型としての完成度だとかプロポーションにはとことん拘る。先のNゲージC62もカトーの旧製品を7本だか買って一番モールドのいいものを選んで加工した、などと訊くと実物の機関車がどうこうよりも、模型というものに賭ける思いが伝わってくる。確かに、鉄道模型に限らず、モノとしてのあまりに美しいフォルムに思わず買ってしまった文房具、などというものも少なからずある。

理屈からいえば「模型」というものはあくまでも「なにか」を模してつくられたもの。だから、モティーフとなる「なにか」がなければ成立しない。そうだとすれば、特定ナンバー機をつくってこそ、ともいえる。それに時間経過まで入れたら、われわれがC622(1971年小樽築港時代)とC622(東海道時代)の両方を製品化する意図もご理解いただけようか。そういいながらも、果たしてそれだけではない世界もある、ことも認めねばならない。趣味の世界はそれぞれなのだ。
いのうえ コラム